Published 2月 15, 2018 by

伊藤若冲~仙臺との繋がり(3/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー若冲の由来ー
改めて、「若冲(じゃくちゅう)」を名乗る前は「春教春卜(しゅんぼく)」という名を頂いてはいたのですが、その名前の作品はないそうです。あえて使わなかったと言うのが正しいとされています。それなら、なぜ「若冲」を名乗るようになったのか?謎は深まります。
後年、親しく交際のあった大典和尚の他に、もう一人重要な人物が登場します。その人物こそが後に「若冲」と名乗るきっかけを作った人なのですが、この人物こそが仙台・松島との関わりがある人物だったのです。まずはこの人物の生い立ちから説明します。

その人物の名は京都で「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれていました。仙台に住んでいる方ならすぐに思い浮かぶのが、かの有名な茶菓子屋の「売茶翁」。そのお店とも何か関連が?と想像が膨らみますがその話は後ほどに。
京都の売茶翁は、元は佐賀県の肥前蓮池の生まれです。ここは鍋島と家柄の領地で鍋島家の菩提寺が龍津寺(りゅうしんじ)です。幼い頃の売茶翁はこの寺の化霖和尚(けりんおしょう)に就いて修行し、僧名を「月海元昭和(げっかいげんしょう)」と言っていました。
月海は幼い頃から化霖和尚から修行を積んでいたのですが、化霖和尚亡き後33歳の時に龍津寺を任されます。その後、50歳を迎えたある時、月海は藩の菩提寺から忽然と姿を消しました。藩の大名から恩恵を受ける大きな寺の住職の地位を捨ててどこかへ行方をくらましたのです。

それから10年後、京都の街中に「通仙亭」と書かれたのぼり旗を掲げた質素な茶屋が出没します。今で言うところの移動販売の茶屋です。その主こそが月海です。大きな寺の僧侶の身分を捨て、すでに60歳を迎えた老人となっていました。
粗末な茶屋でお茶を売る年寄りがいるということで、人々は「売茶翁」と呼びました。月海もその名が気に入っていたようです。
名が意味する通り、質素な茶屋で煎茶を淹れその日食べれるお金を得るだけの人。以前は由緒ある寺の僧侶であり大名との関わりが深かったにもかかわらず、自ら過去を名乗らず人々に説法をすることもなく、あるいは仏の道を説くわけでもなく、僅かな銭を得る以上のことは何もしませんでした。月海は空白の10年で俗世から離れ悟りを悟ったのではないでしょうか?
けれど人間も生き物。生きるからには糧が必要。俗人はそのことで血眼になり銭を稼ぐ。月海は仏に仕え、俗世で自分に課せられた修行から「自分は生きるために、煩悩である金を得る商いをして生きている。僧侶として説法を説くより食べ物を買うだけの銭を稼ぐことのほうが現実」だと悟ったのでしょう。


そして、売茶翁は若冲の幼馴染みである僧侶である大典とともに下賀茂神社の近くの川辺りにて茶をたて次の詩を読んでいます。
茶を立てる時に使った器には「大えい若冲」(えいの字はPCには無い漢字)と書かれていたそうです。売茶翁はこの水差しを見てこう詠みました。
「大えいは冲なし(むなし)きが若き(ごとき)もその用はつきず」(PCでは漢字が無いので一部ひらがな)
この意味は「巨大な器はそれが空っぽの時は何の役にも立たないように見えるが、いったんそこに水を溜めればその有り難さは無限である」ということ。
幼馴染みの大典とともに行動していれば若冲もまた、売茶翁が詠んだこの詩も直接聞いていたに違いありません。この時、若冲は34歳。若冲の「冲」の字は「沖」の俗字が当てられたことから、売茶翁のこの詩から名前をもらい自らを若冲と名乗ったとされています。

これで、若冲の由来はわかりました。さて?仙台・松島との関わりが残っています。今からその謎をひも解きましょう。