2018年2月22日木曜日

大胆予想〜今年の梅雨は空梅雨です

こんにちは、染井吉野です。

今シーズンの冬は大雪でしたね。日本海側は何十年ぶりの大雪。被害も大変でした。
もう少し時間を遡ってみると、昨年の梅雨は記録的な長梅雨。このブログにもアップしましたが、我が家の程々の家では広縁にカビが発生するほどのジメジメ。
仙台では1ヶ月以上も連続して雨が振りました。

長梅雨と大雪、どちらも空から大量の水が降り落ちましたので、今年は空梅雨になりそうです。地球も生き物ですから、バランスを取らなくれは。沢山水を落としたところは次は水は落ちてきません。そうやって程よく空気も循環しているのだと考えます。

そうすると、今年の梅雨は空梅雨に違いありません。
今年の夏は農作物が心配になります。きっと、恵みの雨が欲しくなるのかもしれません。


もちろん、これはあくまでも個人の予想です!

でも、一番の願い事は適度な雨と豊作です。

2018年2月17日土曜日

伊藤若冲と仙臺との繋がり(5/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー仙台にある売茶翁(ばいさおう)ー
そして最後に仙台の茶菓子屋の「売茶翁」。京都の売茶翁または月海と直接関わりがあるのでは?と想像しました。

結論から先に言ってしまうと、残念ながら直接の関係性はありませんでした。
茶菓子屋の売茶翁は明治創業で、老舗ではありますが残念ながら若冲が生きた年代とは異なります。当時の屋号は「甘泉堂」と言っていたそうです。

創業者は京都の売茶翁に感銘を受け、お店でも売茶翁のように茶をもてなしたとも伝えられています。戦前のお店は仙台市中心部の一番町(一番町東北電力ビル裏あたり)に構えていたそうです。このあたりには今も戦前から同じ場所に梅原楽器店(和楽器)があり、甘泉堂はその近所にあったそうです。この一帯は戦時中空襲で焼け出されたため現在の仙台市青葉区春日町に移動しました。「売茶翁」の屋号を使い始めたのは1947年(昭和22年)の戦後のことです。
売茶翁が若冲の名前のきっかけになったことは知っていたのでしょうか?
若冲ブームをきっかけにお店の「売茶翁」も話題になることはきっと想像していなかったと思います。意外な偶然が面白いですね。

さて仙台の売茶翁は、有名な茶菓子(和菓子)屋さんです。その佇まいは一軒の古民家。表向きにはそこがお店だとは気が付きません。売茶翁の看板も控えめです。
買い求める人はお茶の先生方や常連の方々ばかり。その上、会社の役員とおぼしき方々がクルマから降りてわざわざ立ち寄ります。贈答用の菓子折りとして重宝しているようです。
人気の和菓子は午前中には売れ切れとなるほど。私も買い求めて食してみました。屋号に引けを取らないその美味しさはいかばかりでしょう。気になる方は是非お店から購入してみてください。電話番号はありませんので直接お店に行くしか方法はありません。
店内にはカフェスペースも併設されていますので、若冲と売茶翁に想像を巡らせながらゆっくりお茶を飲むのもいいかもしれません。

以上で、世界中に名を轟かせた若冲。その若冲と仙台、さらに仙台の茶菓子屋売茶翁の関係性の謎が解けました。

若冲の虜となった今、仙台に住んでいて若冲と関わりがあったことに嬉しさを感じます。



-完-

参考文献と資料
別冊宝島社「若冲」
Wikipedia売茶翁
SHIKOUSAKUGO
伏見通信:https://fushimimomoyama.jimdo.com/%E5%A3%B2%E8%8C%B6%E7%BF%81/
萬寿寺(万寿寺)
売茶翁:宮城県仙台市青葉区春日町3-13、電話なし

2018年2月16日金曜日

伊藤若冲と仙臺との繋がり(4/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー月海の空白の10年ー
いよいよ若冲と仙臺との繋がりです。

少し時間を遡ります。売茶翁が月海と名乗った僧侶時代、50歳を迎えた時、京都の街から月海は忽然と姿を消し再び京都に現われる10年の間、はたしてどこにいたのでしょうか?

実はこの間、月海は(今の)宮城県に現れます。しかも二度目です。一度目は22歳の頃とされ、病気がきっかけで日本三景松島の瑞巌寺(ずいがんじ)で修行したとされています。
二度目が50代の時で、(今の)仙台市青葉区小松島にある萬寿寺(万寿寺)に身を寄せたとされています。佐賀県に生まれ京都で僧侶となった月海が遠く仙台まで来ることになったのは何故なのでしょう?

その理由は、月海の師匠となる月耕僧侶がこの萬寿寺にいたことから師を頼り身を寄せたものです。この寺の古文書に、京都の龍津寺から月耕と言う僧侶が数年に渡って身を寄せ修行していたと記述があるそうです。
この萬寿寺は、その昔この地方では禅寺として修行僧を数百人も抱える大きな寺であり、月海もそのひとりとして滞在していた事は間違いありません。修行を終えた後に京都に戻り売茶翁となったのです。
今でもこの萬寿寺の門前にある掲示板に月耕僧侶がこの寺で修行したことが記されています。
この頃は禅僧を優に500人以上を抱え広大な敷地をもつ大きな寺だったそうですが、明治以降は廃れ現在の本堂のみを残す小さな寺になりました。この寺の歴史を振り返って想像を巡らすと、陸奥を旅した松尾芭蕉の句にある「夏草や兵どもが夢の跡」に想いを重ねてしまいました。

若冲の名を名乗るきっかけとなった人物月海が遠い仙台と松島にて修行をしていたことに驚きです。もう一度この茶屋ののぼり旗に書かれた屋号を確認しましょう。
「通仙亭」
仙台の文字が入っている、というのは単なる偶然からでしょうか?悟りの地「仙台に通ずる」と思うのは単なる思い込みにかな?
仙台藩祖の伊達政宗が仙台に居を構える前は、この地は「千代」とも「千体」とも言われたそうで、正宗が街を開くときに仙臺の文字を当てたそうです。

ともあれ月海はこの10年の間、仙台にて修行し悟りを開いたに違いありません。そして、再び京都にて俗世間から身を引き、ひっそりと暮らし、その佇まいから身を持って人々に悟りを伝えていたのかもしれません。

若冲もまた、豪商の家督を弟に譲り自らもひたすらに絵画の道に身を投じ絵師として技を極めました。商いに何の魅力も感じなかったのはある意味では俗世の生き方に懐疑的だったかもしれません。色恋も絵師の道には邪魔なものだったのかもしれません。
煩悩を捨て、ただひたすらに筆を握り目の前の本物に感性を研ぎ澄ます。若冲にとってはこれが修行だったのです。
売茶翁と若冲。
この二人が運命的に出会い、お互い無欲の魂が通ったことに間違いはなさそうです。 

2018年2月15日木曜日

伊藤若冲~仙臺との繋がり(3/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー若冲の由来ー
改めて、「若冲(じゃくちゅう)」を名乗る前は「春卜(しゅんぼく)」という名を頂いてはいたのですが、その名前の作品はないそうです。あえて使わなかったと言うのが正しいとされています。それなら、なぜ「若冲」を名乗るようになったのか?謎は深まります。
後年、親しく交際のあった大典和尚の他に、もう一人重要な人物が登場します。その人物こそが後に「若冲」と名乗るきっかけを作った人なのですが、この人物こそが仙台・松島との関わりがある人物だったのです。まずはこの人物の生い立ちから説明します。

その人物の名は京都で「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれていました。仙台に住んでいる方ならすぐに思い浮かぶのが、かの有名な茶菓子屋の「売茶翁」。そのお店とも何か関連が?と想像が膨らみますがその話は後ほどに。
京都の売茶翁は、元は佐賀県の肥前蓮池の生まれです。ここは鍋島と家柄の領地で鍋島家の菩提寺が龍津寺(りゅうしんじ)です。幼い頃の売茶翁はこの寺の化霖和尚(けりんおしょう)に就いて修行し、僧名を「月海元昭和(げっかいげんしょう)」と言っていました。
月海は幼い頃から化霖和尚から修行を積んでいたのですが、化霖和尚亡き後33歳の時に龍津寺を任されます。その後、50歳を迎えたある時、月海は藩の菩提寺から忽然と姿を消しました。藩の大名から恩恵を受ける大きな寺の住職の地位を捨ててどこかへ行方をくらましたのです。

それから10年後、京都の街中に「通仙亭」と書かれたのぼり旗を掲げた質素な茶屋が出没します。今で言うところの移動販売の茶屋です。その主こそが月海です。大きな寺の僧侶の身分を捨て、すでに60歳を迎えた老人となっていました。
粗末な茶屋でお茶を売る年寄りがいるということで、人々は「売茶翁」と呼びました。月海もその名が気に入っていたようです。
名が意味する通り、質素な茶屋で煎茶を淹れその日食べれるお金を得るだけの人。以前は由緒ある寺の僧侶であり大名との関わりが深かったにもかかわらず、自ら過去を名乗らず人々に説法をすることもなく、あるいは仏の道を説くわけでもなく、僅かな銭を得る以上のことは何もしませんでした。月海は空白の10年で俗世から離れ悟りを悟ったのではないでしょうか?
けれど人間も生き物。生きるからには糧が必要。俗人はそのことで血眼になり銭を稼ぐ。月海は仏に仕え、俗世で自分に課せられた修行から「自分は生きるために、煩悩である金を得る商いをして生きている。僧侶として説法を説くより食べ物を買うだけの銭を稼ぐことのほうが現実」だと悟ったのでしょう。


そして、売茶翁は若冲の幼馴染みである僧侶である大典とともに下賀茂神社の近くの川辺りにて茶をたて次の詩を読んでいます。
茶を立てる時に使った器には「大えい若冲」(えいの字はPCには無い漢字)と書かれていたそうです。売茶翁はこの水差しを見てこう詠みました。
「大えいは冲なし(むなし)きが若き(ごとき)もその用はつきず」(PCでは漢字が無いので一部ひらがな)
この意味は「巨大な器はそれが空っぽの時は何の役にも立たないように見えるが、いったんそこに水を溜めればその有り難さは無限である」ということ。
幼馴染みの大典とともに行動していれば若冲もまた、売茶翁が詠んだこの詩も直接聞いていたに違いありません。この時、若冲は34歳。若冲の「冲」の字は「沖」の俗字が当てられたことから、売茶翁のこの詩から名前をもらい自らを若冲と名乗ったとされています。

これで、若冲の由来はわかりました。さて?仙台・松島との関わりが残っています。今からその謎をひも解きましょう。

2018年2月14日水曜日

伊藤若冲~仙臺との繋がり(2/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー若冲の生立ー
生まれは1716年2月8日で京都の高倉通と錦小路通の交わるところに生家があったとされています。若冲とは成人後の名前ですから幼少の名は違う名です。
生家は野菜問屋「桝源(ますげん)」を営んでいて長男として生まれています。父は伊藤宗清だそうです。問屋ですから農家から野菜や果物を買い卸していました。生家のあった界隈は元々錦市場だったので問屋が軒を連ねていたことは想像ができます。主(あるじ)は代々「源左衛門」と名乗っています。
若冲が23歳の時(1738年)に父宗清が逝去したため長男だったので家を継ぎ四代目「伊藤源左衛門」となります。

幼少の頃の若冲については、当時親しく交流していたしていた寺の僧侶大典顯常(だいてんけんじょう)が書き残しています。若冲は若い頃から学問が嫌いで書も下手、さらには何の特技もなかったとのこと。更には、若冲が20代後半の時に直接聞いた話としてこうも書いています。「京都の街中の青物問屋の主人は酒も呑まなければ女にも関心が無く、無学で無趣味そして無芸であり、まさしく唐変木(とうへんぼく)というほかない。」と。

庶民の間でも、代々続く問屋の主人としては、なんの取り柄もないと絶好の話の種になっていたにちがいありません。
この時代は、家を継がせる長男は妾(めかけ)を持ってでも跡取りを作るのが普通だったらしいので、女性にも興味がなく、何に対しても欲がなかったのですから変わり者呼ばわりされていたのでしょう。

そんな若冲ですが、親しい大典は、若冲は幼い頃から絵を書くことだけが唯一の楽しみだったと記しています。
問屋の主(あるじ)となっても絵を描くことは続けていたらしく、若冲は京都に大阪の狩野派の画風を独学で習得した画家、大岡春卜(おおおかしゅんぼく)を招いて絵画の勉強をしていたらしいです。画家を大阪から何度も招くことができたのは代々続く商家の主であったことが幸いしたと思われます。基礎的な筆使を習得した若冲は師匠春朴から「春教」という画名をもらっています。だたし、この画名での作品は残っていないらしい。それは、師匠である春卜の弟子になるつもりはなかったようで、大典に「狩野派の技法は学び終えたので自分はこれ以上学ぶものはない。」と言ったと書かれています。

若冲は狩野派の教材は中国から伝わった絵の模写を使っていたため、直接実物の絵をを見たくなりました。いくつかは京都の寺院にあったため、ひとつずつ訪ねては蔵にしまい込んでいる絵を見せてもらい、自らの手でそれらを模写したとされています。その数なんと1000本にも及んだと言いますから、その情熱はすごい。

それでも若冲はそれでも気持ちを満たされることは無かったようです。確かに目の前にある漢絵は本物に違いないのですが、その絵でさえ画家が紙の上に書き写したもの。自分はそれをさらに書き写しているにすぎません。画家であるならば模写ではなく目の前の本物を描くことこそが画家の本分であるということに気がついたのかもしれません。
若冲は身近に飼われていた鶏(とり)に目をつけ、庭に数羽放し飼いしその躍動の一瞬一瞬を目に焼き付けました。それが後の作品へと繋がったのですね。

2018年2月13日火曜日

伊藤若冲~仙臺との繋がり(1/5)

こんにちは、染井吉野です。

「伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)」

ものすごく精巧で写術的に描かれた「紫陽花双鶏図」に代表される若冲の絵は誰しも目にしたことがあると思います。
若冲は江戸時代に京都に現れた絵師ですが、その生涯は断片的に語り継がれているだけで詳しいことはわからないようです。

その絵を見るたびに、なんとも艶やかでそして今に飛び立とうとしている筆使いに時間を忘れて見入ってしまいます。
絵に関心が惹かれるとその絵師についてもっと知りたくなりました。
調べている内に、なんと仙臺にも接点があったんですね。仙台に住んでいる者としては嬉しい限りです。

今回は、自分なりに「伊藤若冲と仙臺の繋がり」について、数回に分けて書き留めたいと思います。

 ーはじめにー
超精巧に描かれた日本絵画の画家で有名な「若冲(じゃくちゅう)」
何かのきっかけで目にし、強烈な印象が残っていましたが忙しさに紛れて少し忘れてしまっていました。それから何年経ったことでしょう。最近の若冲ブームで再び目にすることになりました。何度見てもその素晴らしさや圧倒的な躍動感に魅了されます。
そこで若冲を少し調べたら以外にも地元仙台に関連があることがわかりました。

彼の作品は全国で展示され連日鑑賞者が押し寄せるほどの超人気の日本画家です。若冲の名前は知らなくても、彼の筆による幾つもの代表作である各「鶏図(けいず)」は目にしたことがあるはず。
その鶏(にわとり)を模写した繊細な筆使と鮮やかな色彩に誰もが驚愕し海外にも貯蔵されたりコレクター同士で取引されるなど、話題が尽きません。
彼は京の都で活躍した日本画家ですが、以外にも遠く離れた現在の宮城県仙台市と日本三景の松島町ともほんの少しながら接点があると知れば、若冲に魅せられたものとしては嬉しいものです。
そこで、素人ながら若冲と仙台・松島との関係を調べた限りではありますがご紹介したいと思います。

2018年2月8日木曜日

程々の家暮らし方鑑賞マニュアル~小さきものは美しきかな

小さいながらも個性が表現されています。
こんにちは、染井吉野です。

会津焼の小さな一輪挿し。その小ささがわかるようにノートPCの上に置いて撮影してみました。
この小さな器ですが、低くどっしりと構えた姿はなんとも絶妙な丸みを帯びて、その姿形から、この中に大きな宇宙が覗けそうです。

どうして今、手元にあるのかは忘れてしまっていますが、とてもかわいらしいその姿ゆえ、棚の上に置いて鑑賞しています。程々の家にとてもよくお似合いです。

2018年2月1日木曜日

程々の家暮らし方鑑賞マニュアル~古い木箱を暮らしに取り入れる

この木箱が部屋のお片付に役立ちます。
こんにちは、染井吉野です。

フローリングに毎日の生活で使うものをついつい置きっぱなしになります。不思議なことにひとつ置くといつの間にかその数が増えていきます。
何時かは片付けなければ、と思うのですが、普段使いのものだけについついそのままになってしまいます。
こうして、いつの間にか必要品なのか不要品なのかわからなくなって。

こうなってしまうと、お掃除も大変ですね。一山の固まりを動かそうにも崩れてきそうです。

そこで、頂いた古い木箱を物入れとして再利用することにしました。何の変哲もないただの木箱。このままだと、収納した後動かすことができないので100均でキャスターを買ってきました。角の4箇所と真ん中1箇所に取り付けます。(画像は取り付ける前です)

これでお掃除も楽々できて、考えながら収納するようになり、お部屋の見た目がスッキリしました。